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2012年03月29日

石野信安(二代目)

石野信安.jpg石野信安(明治40年12月18日生まれ)
日本東洋医学会 評議員・名誉会員 東洋鍼灸専門学校・校長を歴任。

「厳格な医師の長男として千葉県山武郡大網町に生まれた。
幼少の頃から病弱だった信安は、父(石野昇平)に習い医師をめざす。
日本医科大学に入学間もないころ、病気になった信安は東洋医学でその病気が治る。
それがきっかけとなり漢方を勉強、漢方の一派一貫堂に入門する。

頑固一徹な信安の父(石野昇平)は東洋医学を認めず(医師の資格も取れぬのに横道に逸れるな)と猛反対したがそれでも医学生の信安は隠れて勉強を続けていた」という(以上『医道の日本』歴史に残る期界の人々 其の二十七 石野信安 )より。

日本医科大学を昭和9年卒業後は東京市立大塚病院(現 都立大塚病院)、産婦人科に勤務。
昭和16年、医学博士号を授与。
戦渦激しくなり、志願して神奈川県高座海軍共済病院に軍医として入営。
終戦により父と一緒に大網町で産婦人科を開業。

敗戦後に矢数 格の許しを得て、奥田謙蔵に師事し漢方古方を学んだ。
また鍼灸は柳谷素霊、井上恵理の知遇を得て指導を受ける。
昭和32年から、地元を離れて東京。大田区調布嶺町(現 北嶺町)で産婦人科を開業し、当時としてはめずらしく漢方・鍼灸部門も併設していた。

【石野信安の偉業】
産婦人科医として世界ではじめて、
三陰交のお灸でさか子を治すを学会発表。
昭和25年に日本東洋医学会で現代医学の産婦人科医として発表。

「石野信安はそれまでタブーとされていた妊婦の足の三陰交へのお灸が実は母体と胎児に優れた効果があることを臨床によって証明し、逆子の治療のみならず、新生児の優良化、そして女性全般の病気の治療に鍼灸、漢方を役立てた産婦人科医である。」(『医道の日本』歴史に残る期界の人々 其の二十七 石野信安 )より。

石野信安2.jpg「三陰交というツボは、終戦後すぐに私が、そこのお灸をすえて、胎児のさか子を治したのがきっかけで使うようになりました。その後、ここにお灸をすえると安産になり、さらに生まれた子供が丈夫に育つと気づきました。」『女性の一生と漢方』石野信安著 緑書房。
三陰交、この逆子をなおす灸を、世界で最初に行ったのは産婦人科医の信安が最初です。その後、我が国を始め世界各国で追試されています。

女性の健康に関わる産婦人科を専攻したのは、「子供は国の宝で未来の期待がかかっている、その子供を産むのは女性で、丈夫な、心身ともに健康な女性から健全な子供が生まれる。健康な女性から、より丈夫な子供を生む、それは個人的な問題から、家族、一族、民族の幸福と繁栄につながるのだという考えからとのことでした。」と聞いています。
信安は大網にいるこら安産の経穴を発見し、ほとんどの妊婦さんの足の三陰交にお灸をしていました。

昭和62年8月18日没 行年80歳
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創設者:石野昇平(一代目)

石野昇平.jpg創設者:石野昇平(明治13年3月10日生まれ)
明治35年、仙台医学専門学校(現 東北大学 医学部)を卒業。

昇平は志願して入営、日露戦争に陸軍軍医として従軍、凱旋帰国して、しばらく東京の病院に奉職した。
明治42年4月に石野医院を千葉県山武郡大網町(現、大網白里町)に開業した。
当時のことで、現在も開業医はそうだが、幅広く何でも診察をしていた。
足に熱湯をかけた、耳に虫が入った、馬に蹴られたなどいろいろの患者さんがきていたようである。
また当時の国鉄の嘱託医いわゆる鉄道医でもあり、小学校学校の校医も務めていた。
とにかく質素倹約を美徳とする、明治の人そのものであった。しかし非常に優しく、患者さん思いの医師であった。午前中は外来で、午後には往診をして、日曜日や祝祭日のない、休みのない開業医であった。真夜中に急病人には往診もいとわずにしていた。
昇平は東洋医学を認めず漢方治療は信用していなかった。

昭和39年9月20日没 行年85歳
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