
日本東洋医学会 評議員・名誉会員 東洋鍼灸専門学校・校長を歴任。
「厳格な医師の長男として千葉県山武郡大網町に生まれた。
幼少の頃から病弱だった信安は、父(石野昇平)に習い医師をめざす。
日本医科大学に入学間もないころ、病気になった信安は東洋医学でその病気が治る。
それがきっかけとなり漢方を勉強、漢方の一派一貫堂に入門する。
頑固一徹な信安の父(石野昇平)は東洋医学を認めず(医師の資格も取れぬのに横道に逸れるな)と猛反対したがそれでも医学生の信安は隠れて勉強を続けていた」という(以上『医道の日本』歴史に残る期界の人々 其の二十七 石野信安 )より。
日本医科大学を昭和9年卒業後は東京市立大塚病院(現 都立大塚病院)、産婦人科に勤務。
昭和16年、医学博士号を授与。
戦渦激しくなり、志願して神奈川県高座海軍共済病院に軍医として入営。
終戦により父と一緒に大網町で産婦人科を開業。
敗戦後に矢数 格の許しを得て、奥田謙蔵に師事し漢方古方を学んだ。
また鍼灸は柳谷素霊、井上恵理の知遇を得て指導を受ける。
昭和32年から、地元を離れて東京。大田区調布嶺町(現 北嶺町)で産婦人科を開業し、当時としてはめずらしく漢方・鍼灸部門も併設していた。
【石野信安の偉業】
産婦人科医として世界ではじめて、
三陰交のお灸でさか子を治すを学会発表。
昭和25年に日本東洋医学会で現代医学の産婦人科医として発表。
「石野信安はそれまでタブーとされていた妊婦の足の三陰交へのお灸が実は母体と胎児に優れた効果があることを臨床によって証明し、逆子の治療のみならず、新生児の優良化、そして女性全般の病気の治療に鍼灸、漢方を役立てた産婦人科医である。」(『医道の日本』歴史に残る期界の人々 其の二十七 石野信安 )より。

三陰交、この逆子をなおす灸を、世界で最初に行ったのは産婦人科医の信安が最初です。その後、我が国を始め世界各国で追試されています。
女性の健康に関わる産婦人科を専攻したのは、「子供は国の宝で未来の期待がかかっている、その子供を産むのは女性で、丈夫な、心身ともに健康な女性から健全な子供が生まれる。健康な女性から、より丈夫な子供を生む、それは個人的な問題から、家族、一族、民族の幸福と繁栄につながるのだという考えからとのことでした。」と聞いています。
信安は大網にいるこら安産の経穴を発見し、ほとんどの妊婦さんの足の三陰交にお灸をしていました。
昭和62年8月18日没 行年80歳